gyalogos híd

いろんなこととか

日記 20230103

なんか休んだ気もしないが, いわゆる三ヶ日が終わったらしいし, でもよくよく考えたら体調不良精神異常に年末年始なんか関係ないよなっておもう. 外在的な理由で生活が乱される - もうすこし考えれば, そもそも基本的に現世の生活というのは外在的な理由により少なくとも表面的にはしばしば disturb される. まあ chaos のつよみというか, それは「あたりまえの自然の在り方」に由来した無秩序性 - 正確にいえば, 「後付けの秩序」にのっかって生きている: そしてその後付けの framework のうえで生活をしてしまううちに, なにがなんだかわからなくなってしまう (あるいは過適応してしまう) のだろうとおもった.

ひとつには, 「出家」と表現することもできるかもしれないが*1, これはすなわちひとつには「外在的な disturbance によるエネルギーの浪費 (減少) を抑える」という, (ある意味現実的な) 選択肢であると理解している. 実際問題として, なぜ出家が行えないのかというと, すなわち現世的なことによって得ているものがあって, (すくなくとも選択肢が与えられている状況における主観において) その得ているものなしには (あるいは現実的に) いきていられないというところがあるのだろうとおもう.

妄想として, さっさと文明を upgrade してしまって (記号的言及) 現実的にそれをやらねばどうしようもない (とされる) ことみたいなことを減らしていきたいという自然な発想, 願望がある - あるいは転換としてまさに virtual reality ができてくれれば ? でもこういうのって世界の安全性に疑問しかないよなあと自然におもう. いまの reality の世界が (どうやら "客観的" には) 崩壊しないことは, うんざりするほど知っている …… ような気もする.*2

まあでもそれはそれとして, ぼくにとっては普通に, くだらない話をきいたり, ましてや自分の口からくだらない話をしたりするのは, かなりいやなことである. 「くだらない」とか「しょうもない」とか, ニュアンスは異なるがそういうことはしたくない.*3 そういうのがない世界にいくためには, あるいは文化にそういう「(自分にとっては) あたりまえ」のことが浸透してほしいという気持ちがある - つまりところ, 暮らしやすいところで暮らしたい - もっといえば, 精神の負担を感じ続けたくない.

結局のところ, 記号として主にふたつのはたらき …… 「不快でなくありたい」または「快でありたい」という (大雑把に "分類" すれば) "基本的" なはたらきがあるようにおもう.*4 このとき, さきほどの理想郷探しへのモチベーションは, 「不快でなくありたい」的はたらきであると理解される. そういうのも大事だとおもうけど, でも在を楽しんでもみたいともおもう. 在って楽しいんだろうか.

楽しさ (あるいは, たのしさ, または愉しさ) みたいな尺度でははかれないようなところにいる (移行した) 気もするが, そこに関与できないというのも, 寂しいというかかなしいというか. 幸せになってみたい. そういう気分にずっと殺されている. なにかがうらやましいのだろうか. あるいは …… ?

それでも, ぼく自身が system となることをおそれながら, あるいは「種を蒔く」*5ことを (あるいは自己保身的に) 恐れ (あるいはそのような振舞を演じてい) ながらも, 結局のところ種を蒔きつづけているのかもしれない.*6「にがい収穫」を, だからといって, そこから「得てくれ」と, 強制するわけにはいかないのだろう. にがいおもいをしなくとも, しあわせになれる (かもしれない). 権利とか義務とか, あるいは罪, 責任, そういった記号が意味をなさなくなったとしても, どうしてぼくは自分の蒔いた種に対して「のうのうと」していられるのだろうか ?*7

とにかく, 三ヶ日がおわって, よくわからない現実のなかで, こころをすり減らしていくしかないのか. そういうのはいまのぼくには好ましくないが, だからといってどうすればいいのか. 解決方法のわからない問題というのは, ドアノブのないドアみたいなもので, なんだか不甲斐ないようなきもちにもなる. せめて, たのしくやってたい. いい空気で深呼吸したい.

*8

*1:これは友人との会話のなかで登場した単語である. プライバシーのために名前は伏せさせてもらうが, とにかく acknowledge させていただく. ただし, ここでの「出家」に関するひとつの解釈が, 必ずしもその友人の意図と一致することは保証できないということを釈明として明記する.

*2:精神異常が生じたとき, 死んだとき, 生まれたとき, そういうときの主観においてなにが起こるかということはもちろん不明であって, あるいはこのような極端なケースにおいて世界の平坦性・均質性が保全されないならば, その意味では世界はつねに保全されていないのだろうが …… もちろん「そういった側面」とはべつに, 世界が崩壊しないとされることは両立し得る: paradox でもなんでもない. paradox というのは, 結構な頻度で, 同一視できないものを同一視することによっておこる. このとき同一視っていう method が theory あるいは記号の世界において重要なものであることにも気付くが, このことについての詳細はここでは考えない.

*3:もしかするとそれは hidden constraiant かもしれないが. それでもしたくないものはしたくない.

*4:もちろん複雑に絡みあう事項を完全にこれらに鉈でもって切り分けられるかということについては, 「在は字義性をつねに超越する」という基本的なぼくの意見を提示する.

*5:Grothendieck の『収穫と蒔いた種と』による表現であることを acknowledge させていただく. これもまた同様に Grothendieck と同一のニュアンスでつかっていることを保証できない.

*6:あるいは, 自分自身に対しても種を蒔き続けているのかもしれない.

*7:「種には必ず収穫がある」というのは, 逆説的には, そういう在り方でいることも (少なくともある程度には) できるということをいうのみであると捉えることもできるのだろうか.

*8:JR 京都線新快速, 京都方面野洲ゆき車内.