gyalogos híd

いろんなこととか

雑記 20230420

自分で読み返すことができるような文章を書こうと最近緩やかに決意しているように思う. ある意味ではそれは時間に対して vertical なコミュニケーションを成立させる前提であって - コミュニケーションのよくある仕草として, 発信する側と受け取る側のあいだのズレを双方向的に修正しようとする動きがあるわけだが, そういうことを自分もやっていくことが, 結局のところ, 要求されるように思う. 少なくとも素朴には.

最近 blog をなにも更新していなかったことを思い出して, とりあえず書いてみている - あと以前の記事を読んだりしているが, なにかと腹が立つような文章で - あるいは鼻にかけたような言い回しがどうにも気に食わない. けれどある程度ものを書く練習をはじめてからは, "気に食わなさ" についても上から許容量である程度 bound されてきたような気がする. なんにせよとにかく, 書くことを続けていきたい.

 

最近は暖かくなってきた. 洗濯をリズム化できるようになってきたかもしれない. 洗濯の例にも感じるが, 「定数倍レベルのリソースの節約や効率化」についても, 運用上においては新たなパラダイムを拓く可能性を保っているということに気付きはじめた. (ある意味では, これは「リソースがギリギリである」状況に起因して生まれることかもしれない - しかし, こういう定数倍レベルの改善がパラダイムを拓く状況例としては「時間に関する実践」があるように思う: 特に睡眠に関して, この改善により人生の大きなレベルでの困難の解消を可能にするように思う.)

日が昇るのが早くなったので, 早寝したほうがいいかもしれない. 精神科に行ってクエチアピン 25mg を処方されたが最初数日飲めず (入手できなくて), 途中から勝手に一日 2 錠飲んでいる. 効果があるのかは知らないが, 飲まずにはいられないような …… ? どうせ大したことのない量だからとは思うが, それはそれとして医者の言うことが自分はきけないのかもしれない.

最近, 自分の状態が ptsd 的であるように自覚し始めた. 「内なる子供」が無視され続けてきたことについても, どこかで理解し始めているかもしれない. 最近の調子はそんな感じになっている.

 

やっておいたほうがよさそうなこと:

  • Hartshorne iii 章
  • スキームに関する次元論 (古典的なトポロジーの類似として)
  • NSW 関連の結果の勉強
  • もう少しよくある数論

 - あんまりいつもと変わっていない, とにかく真面目にやっておかないと.

ポエムを時々

かいているわけですが.

まあ - 最近のは在の探究のうえで必要なことだという印象はある. もともとポエムはよくかくような人種だったが …… なんていうか, あたりまえだけど, ある種の「醜さ」がそこにはある. 小学生の頃書いた妄想ノートとかメールとかみられたくないひと多いんじゃないですかね. 半年前のおきもちツイートとかイキりツイートとか僕無理になっちゃって, 全部消したりすることがあって. このブログもそういうものの一種になるのだろうか. わからないけれど.

在の探究として (多分) やっていたであろうそういう文章についても, 二ヶ月前のとかを見返してみたんだけど, あんまりなにを言っているかわからない. その頃からある程度真面目に考えだしたから当たり前なんだけど, 意味がよみとれないし, 全体的に拙くもみえてしまう. かいてるときは (きっと) 大真面目だったはずなんだけど …… 自分じゃわからないこともきっとあるのだろう.

ふと, "過去の自分" という概念がある種の近代的 hidden constraiants であるとおもったときに - まあ同時に「ひと」とか「権利」とかそういうものを hidden constraiants とすればこの問いはある程度無効化されるのだけど - "過去の自分" が書いたらしい文章を何故かわたしが削除することができる …… それって許されるの ? そういう疑問がおこる - 的外れな問い.

色々考え直せた部分もあって, ただ在に関して考え直すって別に生きやすくなるわけじゃ必ずしもなくって, やっぱりどうも生きづらい. 感受がすっぱり変わるわけでもないし - 身体だからまあある意味で当然だけど - 結局うつ的気質はある. 少なくとも過去数ヶ月においては, ぼくはそれをやらざるをえなかったわけだけれど.

ほんとうに, 「なるようになる」というのは (字義的な言い方かもしれないが) ひとつの真理だとおもう. そうなったときに, "ぼくはこれからどうなるんだろう". あるいはこれも的外れな問いかもしれない. ところで, いま得体の知れない不安に似た感に苛まれつつあるのだけど, これはちょっとつらいのだけど …… . 意味みたいなところから抜けだそうっていうのは, ほんとうに「生きる意味がない」世界だから - 拠り所がほんとうは「拠り所」だって気付く行為かもしれない - そんなに生温いことでもない …… ようにいまは思っている.

どうなんですかね.

Hartshorne 演習

基本的には, だいたいは解ける. (ちゃんとやれば, 悲観的に想定するよりは解ける.) ただ, 不自然な方法で解くよりは, 適切な方法で解いたほうがなにかと都合のいいこともあるので, アドバイスをもらうことのできるひとにみてもらうのは多分学習者としてはいいことであるように思われる.

きちんと本文を読みこんで, 細かいことを自分で整備したりして, きちんと演習を解いていけば, (そしてその心構えをきちんともっていれば,) 自分のように (4 年ほどの無駄な時間と) 1 年くらいの時間をかけずとも Hartshorne のなかの深い内容に辿り着けるだろうと思う.

2023/01/16 のセミナーにて, いま ii.6 節の演習が扱われており, 演習自体は ii.7 節まで解いている. 以下進行状況などを更新するかもしれない.


以下追記.

  • 2023/01/16: 記事更新.
  • 2023/02/05: 演習は ii.8 節までは解いた. 今形式スキームについて勉強をしている. (completion に関することは, stacks project の 10.96 (2023/02/05 時点) に続くいくつかの section が参考になりそう.)
  • 2023/04/05: 演習は ii 章を一応ひととおり解いた. 本文は iii.8 節までは読んだ. (今のところ, 正直いくつかわからないものはあって答えをみたものもあるが, 実際はどれも解けうるレベルのものであった.)
  • 2023/04/20: 演習は iii.5 節を解いている - 本文は iii.9 節の途中. iii.7.4 は難しいらしい.

日記 20230103

なんか休んだ気もしないが, いわゆる三ヶ日が終わったらしいし, でもよくよく考えたら体調不良精神異常に年末年始なんか関係ないよなっておもう. 外在的な理由で生活が乱される - もうすこし考えれば, そもそも基本的に現世の生活というのは外在的な理由により少なくとも表面的にはしばしば disturb される. まあ chaos のつよみというか, それは「あたりまえの自然の在り方」に由来した無秩序性 - 正確にいえば, 「後付けの秩序」にのっかって生きている: そしてその後付けの framework のうえで生活をしてしまううちに, なにがなんだかわからなくなってしまう (あるいは過適応してしまう) のだろうとおもった.

ひとつには, 「出家」と表現することもできるかもしれないが*1, これはすなわちひとつには「外在的な disturbance によるエネルギーの浪費 (減少) を抑える」という, (ある意味現実的な) 選択肢であると理解している. 実際問題として, なぜ出家が行えないのかというと, すなわち現世的なことによって得ているものがあって, (すくなくとも選択肢が与えられている状況における主観において) その得ているものなしには (あるいは現実的に) いきていられないというところがあるのだろうとおもう.

妄想として, さっさと文明を upgrade してしまって (記号的言及) 現実的にそれをやらねばどうしようもない (とされる) ことみたいなことを減らしていきたいという自然な発想, 願望がある - あるいは転換としてまさに virtual reality ができてくれれば ? でもこういうのって世界の安全性に疑問しかないよなあと自然におもう. いまの reality の世界が (どうやら "客観的" には) 崩壊しないことは, うんざりするほど知っている …… ような気もする.*2

まあでもそれはそれとして, ぼくにとっては普通に, くだらない話をきいたり, ましてや自分の口からくだらない話をしたりするのは, かなりいやなことである. 「くだらない」とか「しょうもない」とか, ニュアンスは異なるがそういうことはしたくない.*3 そういうのがない世界にいくためには, あるいは文化にそういう「(自分にとっては) あたりまえ」のことが浸透してほしいという気持ちがある - つまりところ, 暮らしやすいところで暮らしたい - もっといえば, 精神の負担を感じ続けたくない.

結局のところ, 記号として主にふたつのはたらき …… 「不快でなくありたい」または「快でありたい」という (大雑把に "分類" すれば) "基本的" なはたらきがあるようにおもう.*4 このとき, さきほどの理想郷探しへのモチベーションは, 「不快でなくありたい」的はたらきであると理解される. そういうのも大事だとおもうけど, でも在を楽しんでもみたいともおもう. 在って楽しいんだろうか.

楽しさ (あるいは, たのしさ, または愉しさ) みたいな尺度でははかれないようなところにいる (移行した) 気もするが, そこに関与できないというのも, 寂しいというかかなしいというか. 幸せになってみたい. そういう気分にずっと殺されている. なにかがうらやましいのだろうか. あるいは …… ?

それでも, ぼく自身が system となることをおそれながら, あるいは「種を蒔く」*5ことを (あるいは自己保身的に) 恐れ (あるいはそのような振舞を演じてい) ながらも, 結局のところ種を蒔きつづけているのかもしれない.*6「にがい収穫」を, だからといって, そこから「得てくれ」と, 強制するわけにはいかないのだろう. にがいおもいをしなくとも, しあわせになれる (かもしれない). 権利とか義務とか, あるいは罪, 責任, そういった記号が意味をなさなくなったとしても, どうしてぼくは自分の蒔いた種に対して「のうのうと」していられるのだろうか ?*7

とにかく, 三ヶ日がおわって, よくわからない現実のなかで, こころをすり減らしていくしかないのか. そういうのはいまのぼくには好ましくないが, だからといってどうすればいいのか. 解決方法のわからない問題というのは, ドアノブのないドアみたいなもので, なんだか不甲斐ないようなきもちにもなる. せめて, たのしくやってたい. いい空気で深呼吸したい.

*8

*1:これは友人との会話のなかで登場した単語である. プライバシーのために名前は伏せさせてもらうが, とにかく acknowledge させていただく. ただし, ここでの「出家」に関するひとつの解釈が, 必ずしもその友人の意図と一致することは保証できないということを釈明として明記する.

*2:精神異常が生じたとき, 死んだとき, 生まれたとき, そういうときの主観においてなにが起こるかということはもちろん不明であって, あるいはこのような極端なケースにおいて世界の平坦性・均質性が保全されないならば, その意味では世界はつねに保全されていないのだろうが …… もちろん「そういった側面」とはべつに, 世界が崩壊しないとされることは両立し得る: paradox でもなんでもない. paradox というのは, 結構な頻度で, 同一視できないものを同一視することによっておこる. このとき同一視っていう method が theory あるいは記号の世界において重要なものであることにも気付くが, このことについての詳細はここでは考えない.

*3:もしかするとそれは hidden constraiant かもしれないが. それでもしたくないものはしたくない.

*4:もちろん複雑に絡みあう事項を完全にこれらに鉈でもって切り分けられるかということについては, 「在は字義性をつねに超越する」という基本的なぼくの意見を提示する.

*5:Grothendieck の『収穫と蒔いた種と』による表現であることを acknowledge させていただく. これもまた同様に Grothendieck と同一のニュアンスでつかっていることを保証できない.

*6:あるいは, 自分自身に対しても種を蒔き続けているのかもしれない.

*7:「種には必ず収穫がある」というのは, 逆説的には, そういう在り方でいることも (少なくともある程度には) できるということをいうのみであると捉えることもできるのだろうか.

*8:JR 京都線新快速, 京都方面野洲ゆき車内.

To-Do list 20230102

数学

  • Hartshorne 演習
  • descent theory
  • 代数多様体の理論
  • Belyi の定理
  • Riemann 面の学習
  • 子供のデッサンについての理論
  • NSW
  • type theory (Girard, "Proofs and Types")
  • 可換環
  • 複素幾何
  • 微分幾何
  • 表現論
  • 圏論

音楽

  • SoundQuest
  • Ellington 曲の聴き込み
  • 楽譜チェック
  • 譜起こし

生活

  • 英語 (listening)
  • 財布, 自転車, 服などの購入 (奨学金が入っていれば)
  • mathpedia 更新
  • 文書製作