gyalogos híd

いろんなこととか

ポエムを時々

かいているわけですが.

まあ - 最近のは在の探究のうえで必要なことだという印象はある. もともとポエムはよくかくような人種だったが …… なんていうか, あたりまえだけど, ある種の「醜さ」がそこにはある. 小学生の頃書いた妄想ノートとかメールとかみられたくないひと多いんじゃないですかね. 半年前のおきもちツイートとかイキりツイートとか僕無理になっちゃって, 全部消したりすることがあって. このブログもそういうものの一種になるのだろうか. わからないけれど.

在の探究として (多分) やっていたであろうそういう文章についても, 二ヶ月前のとかを見返してみたんだけど, あんまりなにを言っているかわからない. その頃からある程度真面目に考えだしたから当たり前なんだけど, 意味がよみとれないし, 全体的に拙くもみえてしまう. かいてるときは (きっと) 大真面目だったはずなんだけど …… 自分じゃわからないこともきっとあるのだろう.

ふと, "過去の自分" という概念がある種の近代的 hidden constraiants であるとおもったときに - まあ同時に「ひと」とか「権利」とかそういうものを hidden constraiants とすればこの問いはある程度無効化されるのだけど - "過去の自分" が書いたらしい文章を何故かわたしが削除することができる …… それって許されるの ? そういう疑問がおこる - 的外れな問い.

色々考え直せた部分もあって, ただ在に関して考え直すって別に生きやすくなるわけじゃ必ずしもなくって, やっぱりどうも生きづらい. 感受がすっぱり変わるわけでもないし - 身体だからまあある意味で当然だけど - 結局うつ的気質はある. 少なくとも過去数ヶ月においては, ぼくはそれをやらざるをえなかったわけだけれど.

ほんとうに, 「なるようになる」というのは (字義的な言い方かもしれないが) ひとつの真理だとおもう. そうなったときに, "ぼくはこれからどうなるんだろう". あるいはこれも的外れな問いかもしれない. ところで, いま得体の知れない不安に似た感に苛まれつつあるのだけど, これはちょっとつらいのだけど …… . 意味みたいなところから抜けだそうっていうのは, ほんとうに「生きる意味がない」世界だから - 拠り所がほんとうは「拠り所」だって気付く行為かもしれない - そんなに生温いことでもない …… ようにいまは思っている.

どうなんですかね.